国債廃止論は不安定化への荷担

 国債の存在そのものが、政府が一方的な貨幣の発行者ではなく、民間のマネーを「借りて」「使う」経済主体であることを示している。だからこそ、国家こそが貨幣の供給者であるというイデオロギーを流布させたい連中は、国債の存在を不当に貶める作業に熱心になるのである。

 政府は確かに、(潜在的には)貨幣を発行する能力を持ってはいる。しかし、歴史的事例を見れば、その能力を行使した場合、数年から数十年の間に「例外なく」民間の経済活動を混乱に陥れるような、強度のインフレを招いている。困窮する庶民を救おうという「正しい」目的のために通貨が発行された場合でさえそうなのだ。

 だからこそ、先進諸国では、政府は、国債市場経由で「民間銀行が信用創造した」マネーを調達して財政支出に充てることにしているのである。財政引き締めが必要な状況になれば、国債金利が上昇することで自動的に資金調達にブレーキがかかる仕組みである。これで、とりあえずは、政府支出が原因になって悪性のインフレを「加速させる」ことには歯止めが掛けられる。また、固定金利で発行しておけば、金利が急上昇を始めてから対応策を打つまでの時間を稼げる(逆に金利下降局面では利払い費用が余計にかかるが、安定化のための必要経費と見做すべきだろう)。

 国債廃止論を主張することは、この安全弁を外すべきだと主張することに等しい。

 民主制を採用している国家で、財政政策が、力関係が拮抗した政治勢力間でのバラマキ政策合戦になり始めた場合、国債廃止論者は、これをどのように抑制し得ると考えているのだろうか?聡明なる「行政機関の長」が「適切な判断」に基づいて「善処」して下さるとでも信じているのだろうか?