「乗数効果」というミスディレクション(誤認誘導)

 要するに、「乗数効果」なる「学説」というのは、国内経済のフローの規模に対してプラスの影響を与える無数の回路とマイナスの影響を与える無数の回路の中から、プラス側の一回路のみを切り出して強調することによって、他の回路を軽視、あるいは忘却させることを狙った心理的テクニックの一種であろう。

 これを唱えることによって提唱者が本当に狙っていたのは、財政赤字を恐れることなく支出を増加させる「決断」を促すことであったに違いない。

 少しばかり物の道理をわきまえた人物ならば、ここに、学術的な装いを凝らせば凝らすほど、そして、数学的な表現を工夫すればするほど、詐欺的なプロパガンダの度合が増すという逆説を見て取るのは容易な筈である。しかし、実際には「経済学者」たちは、この提言を、数学的な基礎づけを伴った優れた学説であると受け止めてしまった。本当は、そんな代物ではなかったのに、である。

 この「学説」の提唱者は、言わずと知れた、ジョン・メイナード・ケインズである。

 彼がこの学説を唱えた当時の英国は、GDP比で200%近い財政赤字を抱えていた筈である。しかも、不幸なことに、その内かなりの割合を対外債務が占めていた。

 そんな状況にもかかわらず、否、そんな状況であるからこそ、この「学説」は、あたう限り学術的な装いを凝らした形で公表されたのだろう。

 

 私には、この人物が、学者として誠実であったとは全く思えない。しかし、当時の英国の知識人として、自ら果たすべきことは何かということについて自覚的であったことは疑う余地はないだろう。