トマ・ピケティの解釈に対するリチャード・クーのコメント

 かつての世界的なブームが嘘であったかのように言及されることのなくなったピケティの著作だが、リチャード・クーの近著で久しぶりにあの書籍に対するコメントを見た。もっとも、その後、一部界隈では、「バラモン左翼」なるキャッチフレーズが話題になっていたようだが、ブームを起こすには至っていない。
 一頃、猫も杓子もピケティを話題にするといった状況であったおかげで、データだらけの分厚い本に目を通すことなく要旨を知ることが出来たのは、とてもありがたいことではあった。今では古本屋で二千円足らずで買うことができるが、とても通読する気にはなれない。
 膨大なデータからピケティが見いだしたのは、過去数百年のうち、大戦の後の数十年の間だけ、所得の上昇と格差縮小の同時進行という理想的な状況が出現しているということだった。そして、その原因として、大戦による富の破壊と累進的な税制の存在が挙げられている。
 しかし、事態はそう単純なものではないようだ。自身の分析を踏まえて、やや控え目な口調ながら、クーはその現象を以下のように解釈する。

「ピケティは1970年以前の欧米、1990年以前の日本で所得分配改善が見られたと指摘しているが、本書の分析は、これらの改善は黄金期に見られる一時的な現象であることを示している。これらの国々では、その時期に所得の増大と不平等の縮小という大変好ましい現象が観察されたが、その理由は適正な税制が導入されたからではなく、これらの国々が黄金期に入り、これらの国々の製造業が繁栄をきわめた時期だったからである。製造業が繁栄した理由は、欧米の場合は彼らが(日本に追われるまで)独走状態だったということであり、日本の場合は欧米を追撃する一方で、日本を追い上げる国がどこにもない、つまり、日本企業にとって日本国内投資することの資本収益率が最も高いという恵まれた経済環境にあったからである。
 かつてそうした好ましい経済状態があったからといって、それらを継続したり簡単に再現できるとは限らない。実際にこれらの国々は、新興国の追い上げによって被追国になってから成長率が落ち、不平等が拡大している。」(2019,リチャード・クー,『「追われる国」の経済学 ポスト・グローバリズムの処方箋』,東洋経済新報社)

 ピケティには申し訳ないが、こちらの解釈の方が妥当だろう。そして、多少の政策の改変では対処しきれないほど強い変化の動因が民間部門に存在するということを、まずは率直に認めるべきだと思う。
 政府の存在や役割を過剰に高く評価したがる学者や評論家は、財政支出を増やしたり税制を弄ったりすることで、かつての栄光(?)が取り戻せるかのような錯覚に陥りがちなので、彼らの言論に接する場合は、眉に唾をつけて、内容をかなり割り引きながら読む必要がある。そうでなければ、対症療法や弥縫策に過ぎないものを、根本的な解決策だと信じ込まされて、貴重な時間と労力を無駄に費やすことになるだろう。